「自分の苦しみか、他の苦しみか、最初に無量義を説く」・・序品第一【第9月】

  • 2015.08.31 Monday
  • 22:36
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四諦における苦・集・滅・道に於ても、いわば物事は苦から始まっているのです。
この苦しみについて、自らの苦と他からの苦といった二つの道の岐路を知ることになったようです。
                           
たとえば弥勒菩薩のように自分自身にとって、大した関係のない事柄ばかりに疑念を懐いて、それをあえて自分自身に関係していることとばかりに強く執着して解決を欲していることは、原因は他からの苦だったものがいずれ結果的に自らの苦になってしまっていると同じようですね。
                                      
つまり、弥勒菩薩のような場合の自分の苦しみと決め込んだり、思い込んだりしていることは、本当は自分自身の苦しみではないケースのようですね。
しかし、現実に元は自分には関係しないことだった苦しみが、自分に降りかかってくることにより、後から自分自身の苦しみとして実感が生じてくるのではないでしょうか?
                                         
ですから、先ず何事も苦から始まりだすことを物事の前提とすれば、その苦が何であるのか?
簡単な話、自ら生じたのか、他から生じてきたのか、この2種類の区分が最初の解決への第一歩ということらしいですが、その一歩が自分の判断だけでは躊躇してしまい、一気には踏み出し難いわけですよね。
そこで恐らく釈迦が考案したのは、無量義という自分らしさ発見への旅だったのでしょう。
つまり、苦しみという苦しみを一旦は一切払い除けた後に整理して、自らに作った苦しみだけを知る自分自身を作り上げるということなのだと思います。
                                       
そのように無量義處に身を置くということは、他からの苦しみを排除するということであり、その他からというのは同じ衆生の種類ではない天神からの日頃の裁きや現象によるものも他からの苦しみに含まれると考えられるということです。
                                          
ですから、元々神ではない釈迦佛自らが神通力を示すということは、神が最初の衆生を創られたのなら、その最初の衆生が最初から完成させている各々の自分らしさを既に装備されているのであり、ただ単に条件反射的に神の裁きや現象だけを恐れている形態では最初に神が創った自分自身というものを見失っているだけの成行きに流されている状態なのでありますから、本来は元々の自分らしい威力を発散する必要があるということであり、それが2種類を同時に行える法華経ということになるのだと思います。
                                        
よって、無量義経を最初に置くということは、他の事を考えない、単純に自分自身とは先ず何者かなのです。
   

⇒ HP本日ブログへ:第9-1日-文殊師利-導師何が故ぞ-序品第一-五十五行-六十四行/
 
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